wzmx’s diary

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R25の思い出と、R25の記事で出会ったガジェットの思い出

r25.jp

 R25、懐かしいな。学生の頃、大人の人(将来自分の先輩になり得る年齢層の人)は、どういう事で悩んでいるのか、どういう価値観を持っているのか、そういったことをあらかじめ知っておきたくて、フリーペーパー版をよく読んでいた。人気だったので、駅でゲットするのが大変だった。学校が終わったら大急ぎで駅にいかないと手に入らない、激レアアイテムだった。
 R25の記事、常に良質というわけではなかったけれど、R25で気になった記事のキーワードで検索すると、こんなことがあったのか、ということが結構あって、ネットの話題で取り漏らしがあった時に、補完するのに役立った。
 R25の記事で出会ったガジェットで、個人的に思い出深いのが、SanDiskの音楽プレイヤー(sansa e200シリーズの6GBモデル)と、京ぽん(京セラ製のフルブラウザPHSOpera搭載)、そしてW-ZERO3[es]だ。

 

ブログ名はまだ決まっていない(仮):Sansa e280にRockBoxをインストールしてみた。


 当時のiPodは、僕にとっては高い買い物なのに、音楽再生機能しかなかった。まだiPod miniとかnanoが出たてとか、そのくらいの時期だったと思う。SanDiskのsansa e200は、それより1万円近く安い(2万切ってたっけ? 忘れた)のに、容量がそこそこあって、ラジオが受信でき、動画が再生でき、音声の録音もでき(わざわざボイレコ買わなくても授業を録音できたのは本当に助かった。)、microSDカードスロットも付いていた。ラジオの録音って出来たっけ? 出来た気がする。そんなにいろんなことが出来るDAP(携帯音楽プレイヤー)って、当時は大人向けで高かったのに、sansaは何故か安くて、メーカーもちゃんとしたとこで、衝撃的だった。

 クリックホイールを回すと、ホイール部分が妖しい青い光を出す、というギミックも良い。世の中的には多分ダサいんだけど、個人的には非常に妖しくて良い。

 あと、sansaシリーズにはRockboxっていうサードパーティー製のファームウェアがあって、Rockboyというプラグインを入れると、なんとゲームボーイエミュレーターが動くという話もあった。流石にそこまでの冒険は僕には出来なかったけど、「ファームウェア」という概念をそこで知ることができたのは大きい。(知ることができて楽しいという意味で)

 京ぽんは、初めて僕が手にした携帯電話だった。PHSだけど。見た目は一般的な二つ折りのPHSなんだけど、何故かOperaが搭載されていて、パソコンと同じインターネットが見れた。「携帯電話向けのネットの情報量じゃネットの意味ない」と思っていた僕は、携帯電話に全く興味が無かったんだけど、R25京ぽんの記事を見つけて、もう飛びついた。京ぽんで、お友達の広川さんのサイトを見たり、学校でネットの辞書を使ったり、自分のヒョームページ(笑)を見たりして、楽しかった。Operaってすごいブラウザなんだなって思った。本来PC用のブラウザだったのに、小さい機械にもこうやって載っているのがすごい、と思った。将来、いろんな家電やゲーム機にOperaが載ったら楽しいだろうな、洗濯機でブラウジングできるとか、アホみたいな未来が来たらヤバい、どうしよう…!とか考えて、わくわくしていた。

 現実には、IoTみたいに、単にネットに繋がる以上の未来が来ている。本当にすごい。

W-ZERO3 [es]:シャープ


 W-ZERO3[es]も大好きだった。カシャッて物理キーボードが出る、シャープ製の、白い筆箱みたいな、でかいスマホ。本当にかっこよかった。カシャッってなるのがよかった。スイッチを入れるとお馴染みのWindowsのロゴが出る、それにも興奮した。ファイル構成等、勝手知ったるWindowsに中身が近かったので、自分で色々いじれるのがありがたかった。ググればだいたい何とかなる感じがあった。
 今、iPhoneを持ち歩いてると、「スマホ」を持ち歩いてるって感じがするけど、W-ZERO3[es]を持ち歩いていた頃は、スマホを持ち歩いているというより、小さいパソコンを持ち歩いている、という実感がすごくて、興奮する体験だった。もっとも、スマホって本来、小さいパソコンなのだった。W-ZERO3のお陰で、体験としてそれを理解できたのは大きい。(知ることができて楽しいという意味で)
 スマホ自体が珍しかったので、あれ持ち歩いていると、エアコンのリモコンを持ち歩いてるとか言われて茶化された。それ携帯かよ的な意味で。

Advanced/W-ZERO3 [es]:シャープ


 その後、後継機のAdvanced W-ZERO3[es]に乗り換えた。前の奴より少しだけ小さくて、銀色のやつ。今度は髭剃りを持ち歩いてるとか言われた。全部懐かしい。

 

謝った人はちゃんと許されてほしい【ガッテンの件】

news.yahoo.co.jp

www.sponichi.co.jp

 ガッテン、子供の頃はみてたけど、今はみてないからどんな番組なのか知らないけど、確かにみんなが言うように、胡散臭い番組なのかもしれない。正直僕もあんまり見たいと思わないし、放送開始から22年も経って、テレビ以外にもああいった情報を手に入れる手段は増えたので、徐々に役割を終えつつあるのかもしれない。でも、今回のNHKの対応はとても早かったし、テレビ業界特有の縛りの多い中で、出来得る限りのことをちゃんとやってたので、そこはえらいと思う。
 NHKに限らず、というか、テレビに限らず、ネット上の大手メディアのサイトとかでもそうなんだけど、メディアが誤報やらかした時の対応、最悪なのばかりで、誤報だったのに記事消さないわ、記事に追記すらもしないわ、たまに追記してもバレないようにこっそりやっており追記したことをちゃんとTwitter等で周知しないわ、散々な対応ばかりで、本当に酷かった。これは、慰安婦問題やKY報道の件ですっかり人気のなくなった朝日新聞だけの問題じゃなくて、産経とか東京新聞とか、どこもそう。
 誤報やらかした時、誤報の社会的な影響が大きければ、今回のNHKくらいの対応はするのが当たり前、という風潮になってほしい。メディア側は大変になるかもしれないけど、謝るのは大事なことだと思うし、そもそも、きちんと謝ればみんなに許してもらえる社会になれば、怖がらずに間違いを認めてくれるようになりそうなのにな~と思う。そんなのはメディアの中の人たちを信用し過ぎなのではという気が自分でもするけど、最低限そのくらいの懐の深さがこちらにも無いと、向こうが変わる可能性なんて一切ないと思う。
 そのためにも、きちんと出来たことはよくできましたとちゃんと評価していかないといけないと思う。善良アニメ見た時だけ素直な人間になって、見終わったら元に戻るのやめてほしい。そんなんじゃずっと何も変わらない。ちゃんと普段から善き人間でいればいいのに、と思う。

漂流というより、もう営みみたいになってる

kai-you.net

 自分の中の漂流ものは、うんと小さい子供の頃、『ロビンソン・クルーソー』『十五少年漂流記』を買い与えられた時に始まり、中学生の頃に自分で見つけ出した『神秘の島』にネモ艦長が現れた時に何かがピークを迎え、高校生の頃にいろんな人との縁で出会った『蠅の王』で終わった。『蠅の王』に出会った時、僕の中に突然現実世界の魔術が現れて、全てを流し去ったような気がする。「ジェダイはそんなものは求めない」と言われた時のルーク・スカイウォーカーの表情を思い出して欲しい。とは言え、当時の僕は、ああいった現実世界の響きにこそ本物らしさを感じていた時期を過ごしており、そういったものに惹かれていた。あの時、長い探求の旅は終わったんだと思っていた。満足していた。今考えればとんでもない話である。


 普通の子供は、どこで漂流ものに出会うんだろう。『ナディア』で始まり、そこで何となく終わるんだろうか。『ナディア』のネモ艦長は、魂の器をしっかり持ちすぎていて、全然「誰でもない男」に見えない。誰でもない男はもっと悲しそうにしていなければならない。そんなことはないですかね? これも個人的な呪いですか?

 

https://twitter.com/_wzm/status/812628709148532736

https://twitter.com/_wzm/status/831152080119164928

スターバックスで無料でコーヒーが飲めるたった一つの裏技🌟🤗 その1

 昔、友達がスタバ奢ってくれるというので、遠慮なくスタバの濃ゆいドリップコーヒーを頂戴したんですが、ほんとにドリップコーヒーでいいの?もっと値段の高いフラペチーノとかじゃなくてよかったの?と何度も聞かれて、いいんだよ俺はこのドリップコーヒーで、俺はドリップコーヒーが好きなんだよ、俺が飲むコーヒーはな、苦くて、真っ黒でないといけねぇ、まるで、ほら、こっちを覗き込んでみろ、こっちもお前を覗き返してやる、お前自身の闇で、お前をほろぼしてやる、そういう色をたたえたコーヒーでないといけねぇ、そうでないと俺の儀式が完了できねぇ、俺がカフェオレとか飲みたくなるのはな、菓子とか食いたい気分の時だけだぜって、そういう理由だったんだけど、言えなかった。言えるわけない。奢った相手にいきなりそんなめんどくせぇ話をされたって、気持ちよく奢れねぇだろって、そう思ったからなんだけど、きっと遠慮されたって思われただろうな。

 自分を貫くって難しい。自分を貫いた果実として和解を手にするのはもっと難しい。それが出来るやつだけが、本当の偉人になれるんだろう。

この世界の片隅に帰ってきてほしくないヒトとぼくとの関係について

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 『帰ってきたヒトラー』観た。結構よかった。いや、すごくよかった。過去のヒトラー映画のちょうどよい程度のパロディなどもすごくよかった。観てよかった。みんな達もとりあえず観ればいいと思う。

 

 政治的な話、たまに具体的な誰かの話をしすぎている(ネオナチの人達のことじゃない。ヒトラーの直系である彼らは特別扱いにせざるを得ない。)けど、今のドイツでこういう話をしようとしたら避けて通れないのか。どちらかに肩入れするような事ここに書きたくないので、これは飽くまでこの映画の歴史的な価値の話ってことにしてほしいんだけど、あのくだりって本当に映画に必要だったんだろうか。

 「ヒトラーは我々の中でまだ生きている」って台詞はすごい良いんだけど、我々がこの台詞について考える際、我々は"我々"の中に本当に自分を含めるだろうか。結局この問題を考える時に一番大事なのってそこなんじゃないですか。具体的な誰かの話をすることによって"我々"の範囲が無茶苦茶狭くなってる。我々ではない誰かを指差して物語を語って終わりじゃ、お互いにやってること進歩してない。

 この映画に関してはもっともっと主語を大きくしたりしてもよかったと思う。「ドイツのあいつら」って決めてしまったので、ここ何年かにしか響かない映画になった可能性ある。

 「そこを曖昧にすると肝心のあいつらがこの映画を他人事のように受け止めるかもしれない」という懸念はすごく分かる。でもそのあたりは思い切って曖昧にしてしまったほうが、永遠に響き続ける名作になった可能性が高まったと思う。

 お話自体はものすごくよかったから残念だ、と感じる。我々が当分の間は向き合い続けなければいけない問題を扱った映画だからだ。この作品は当分の間は残ってほしい。

 

 それとも、『この世界の片隅に』の太極旗みたいに、「この当時の人はこのように感じました」という、一つの率直な記憶の記録として残っていくのだろうか。それならありがたい気もする。

 

 いろいろ否定的に聞こえることも書いてしまったけど、これは良い映画なのでみんな達も是非観てください。オススメ具合としてはシン・ゴジラを10として8、ローグワンを10として9といった感じで、これはかなり高いし、とりあえず一度は観るべきという水準に達しているといえます。僕がこの2本を引き合いに出している時点でそういうことです!

 『この世界の片隅に』を10とすると…これはちょっとなんも言えない。

響けユーフォニアム!!!! いまを生きろ!!!!!!!

 響けユーフォニアム、あすか先輩が何らかの意味で殺されてたらまじで『いまを生きる』だった。基本的に主要人物が順番に『いまを生きる』をやるアニメだった気がする。つまり、グッときたかと思った次の瞬間!グッとくる奴でした!という意味です。青春映画ってみんなそうじゃんって気もするけど、そういう細かい話はどうでもいい

 というわけで、『響け!ユーフォニアム』がよかった皆さんは、洋画の『いまを生きる』も是非観ましょう!

 

いまを生きる - Wikipedia

 

 『響け!ユーフォニアム』のタイトル、

  • 『いまに響け』

 でもそんなに違和感が無いし、なんなら

  • 『生きて響け!』

 でも全然ありじゃん

肌荒れの季節

 寒くなってきましたね。

 皆さんは、この季節の肌荒れ、どう対処していますか?

 私は、全てを知ったふうな顔して「フフッ…荒れてるな?」と心の中で語りかけるようにしています。

 

 良いお年を!