wzmx’s diary

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 先日ミスドに行ったところ、前に並んでいた知らないお兄さんが、ドーナッツのチョイスに迷ったらしく「お先にどうぞ」と順番を譲ってくださったのですが、僕も迷っていましたので、「僕も迷ってるんです」と答えたのでした。少しの間、二人仲良く、トングとトレイを持って立ち尽くし、ドーナッツを眺めていたのでした。
 別の日にも、別のおばさんと似たような会話があったのでした。
 ミスドって、スムーズに会計してもらうためにああいうシステムにしているのでしょうが、私は社会に言いたい。一言、言ってやりたい。お前が思っている以上に、人類はドーナッツ選びに迷うものなのだよ! あえて僕の推しを挙げるならば、ポンデリングと、オールドファッションハニーです。

ライフの人生

 二段階右折の一段階目を済ませたところで交差点に目をやると、右折待ちの車の窓からプードルが顔を出しているのが見えた。じっとこっちを見つめてきていたけど、僕の姿に飽きたのか、目の前を通り過ぎていく直進車を目で(頭で)追い始めた。犬の目には人間の街や車がどう見えているんだろう。そういえば、車が何なのかよく分からずに車を見つめていた歳の頃の僕は、車や街をどう見ていたんだろうか。もうすっかり思い出せない。単に少し刺激的だというだけだったかもしれない。
 半年くらい前、芋虫を抱えて地面を這っていくカリウドバチを見た。僕の目には、興味深く、少し刺激的だった。ずっとそうやっていって死ねばいいと思う。ずっと刺激的なものを見て終わっていく俺の人生。

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『聲の形』を今更レンタルDVDで視聴したんですが、これは劇場で観なくて正解でした

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 あまりにも良すぎて気持ち悪くなってきた。これを劇場の大スクリーンで鑑賞していたら『この世界の片隅に』の原作を初めて読んだ時のように体調悪くなっていたかもしれない。危なかった。当時、劇場に観にいこうかどうか迷っていたので、危うくけがをするところだった。

 昔の知り合いに、何人かろう者の人がいて、彼らの話し方を覚えているのですが、作中のろう者の演技があまりにリアルでもしかして本当にろう者の人が演じているとかかと思いきやエンドロールで早見沙織と出て脳味噌ひっくりひっくり返った。

台風が直撃して気圧が下がったので、僕は死んだように眠っていた。 -暗黒コロッケ編-

 台風が直撃して気圧が下がったので、僕は死んだように眠っていた。
 
 森を抜けると、渓谷にかかる橋だった。森の天蓋は渓谷の上にその隙間を開き、そこから真夏の日差しの光が広がって、僕らを包み込んだ。川のせせらぎが聞こえる。3人で橋を渡り終えようとした時、一人が「コロッケがない」と言い出した。タッパーに大事に詰めておいたコロッケが、いつの間にか足りなくなったと言う。タッパーの中を見ると、俵型のコロッケが綺麗に並べられているが、確かに不自然な空間が空いており、下に敷かれたキッチンペーパーに多少の油の染みが残っている。そこにあったコロッケが幾つか消えている。
 橋のたもとから渓谷に降り、皆でコロッケを探した。川の流れに足をつける者もいた。一人が「あった!」と叫び、一画を指差した。見ると、一際大きく、お城の石垣の石のような、巨大な岩が鎮座していた。『西遊記』の芭蕉扇のような一枚の大きな葉が岩に被さっており、葉の下の暗がりの中に俵型のコロッケが見える。
 「あそこにもある!」と誰かが言って、河原のあるところを指差した。見ると、河原の石の中に、一つの俵型のコロッケが自然に混じり、転がっている。僕はふと、足元の河原に視線を落とし、適当な大きめの石を持ち上げてみた。石の下に、俵型のコロッケがいた。視線を上げて、上流の方を見た。向こうの岩の上にも、俵型のコロッケが鎮座している。すぐそこの水中を覗いてみた。コロッケだ。コロッケが沈んでいる。見たところ、すごく新鮮だ。衣の鮮やかなキツネ色を見て、思わずコロッケの内部のほくほくのジャガイモを想像した。ごくりと唾を飲む。
 多すぎる。ここはコロッケが多すぎる。ここにあるのは本当に自然のコロッケだろうか。一体誰が、何のために…なぜこんなところに。僕らがここにやって来ることを知っていた誰かが置いていったのだろうか。何のために? 僕らをどこかに誘導して、罠にかけるため? だが、見たところコロッケの配置には法則性が無く、どこかに誘導するような意図は感じられなかった。
 
 私はそこで目が覚めた。
 
 私は、見た夢をここに書き留めながら、コロッケは人間や動物ではないので、こっちに歩いてきたとしてもそのことに意味などなく、もし意味を見出すとしても、それは観察者である自分次第のことなので、結局は自分のせいなのだ、と、改めて思った。

趣味と孤独 -ひとのガンダムを捨てるな-

 

 個人的に、「趣味とは極めるもの」という考え方には大変に疑問を持っています。趣味とは、それ自体を道(どう)のように極めることが最終目的なのではなく、趣味を通じて適切な孤独を自らの内に飼育することが目的の主眼にあったはずで、それが道(どう)のような形態をとっているのは飽くまで便宜上の理由であったはずです。実際、同じ趣味を持つ者同士で、それを極めた者とそうでない者の区別が生まれると、自分の中の孤独を「師匠」のような他人に預ける、というような、不適切な事態が生じかねません。
 そのようなわけで、趣味を持っていない人間は適切な孤独も持てていない、ということが往々にしてあります。自分はそういう人間だと当人が割り切れれば、その瞬間に適切な孤独がその人の内に芽生えるので問題は起こらないのですが、それができない人間の中には、周囲の人間を自分の世界観に押し込むことで安易に孤独を手に入れようとする人がいます。そういう人は自分ではなく身近な人の変革を試みようとして周囲のあらゆる状況を支配しようとします。例えば他人の持ち物を勝手に捨てたり、暴力を振るったり、相手の人生における重大な決定に無責任に介入しようとします。
 趣味とは、他人への執着を捨て、自分をよりよく統治するための簡単な方法の一つです。それが理解できていない人間が他人の領域を侵略しようとするのだと思います。


以下補足
※適切な孤独を養う方法として、趣味を持つこと以外に知られているものとして、例えば哲学や学問をするというものがあります。これはそこそこハードルが高いので、多くの人は趣味を持つことを選びます。

※長年愛好している趣味を持っていたり、それを極めている人間の中にも、こういった他人への侵略を試みる人がいます。趣味を持ってはいても、それを通じて適切な孤独を養うことを怠っていると、こういう人間になるのだろうと思います。新参者をさげすむ人たちや、注目を集めるための意図的な迷惑行為を披露する人たちがこれに当たります。意図的な迷惑行為とは、例えば同級生たちが嫌がるのを分かっていて給食の時間にアニソンを流す、といったような行為のことです。

もうだめ

 

正直、やらかした。久々に、やってしまった。体は発狂しながら悲鳴を上げ、精神はすっかり満たされて狂喜乱舞している。全てを御さなければならない僕は、とにかく横になっている。こんな馬鹿なことは生涯で最後にしなければならない。

ジブリを初めてちゃんと観た時の気持ち

 

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 ジブリ映画をはじめてちゃんと観た時、確かにこんな気持ちになる。
 当時中学生くらいだったと思うけど、録画していたナウシカラピュタを初めて「ちゃんと観れた」と感じたあの時、自分がまともに物を考えられる年齢になりつつあることに気づいた気がする。
 ジブリ、自分の中で昔のアニメになり始めていた。それは別に間違いではないと思うんだけど、初めてジブリをちゃんと観た時のこの感覚も、今日この日に思い出せてよかったと思う。