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『 #青天を衝け 』、衝くならちゃんとしゃがんでから衝いたほうが勢いが出ると思う

 『青天を衝け』、今週の草彅剛は、大きな声で怒った時の滑舌が個人的に少し気になったけれども、SNS上ではその演技は評判のようで、"青天を衝け"のTwitter検索結果は彼の話題で持ちきりのようである。逆に言うと、『青天を衝け』には、草彅剛くらいしか見どころがないように感じる。

 肝心の渋沢栄一パートがつまらない。

 なんでだろう。ここまでの渋沢の歩みにいまいち困難が少ないためか盛り上がりに欠けて感じられるからだろうか。ストーリー運びの根底に無理に儒教の道徳を敷こうとした結果、よく言えば純朴な、悪く言えば真っ当すぎてつまらない人の話になったためだろうか。よく分からない。

 少なくとも、今の段階の彼に「世の中を変えたい」と言わせる必要は無いように思える。今の渋沢は比較的恵まれているにも関わらず、なぜ「この世を変えたい」と思うんだろう。農民としては裕福な家庭に生まれ、田舎で決闘したり、結婚したり、勉強したりしているだけである。合理的な彼は「この世がこのまま続いていってくれたほうがいい」と感じるのではないだろうか。安政の大獄や黒船の噂が彼のところに届いても、所詮遠くの土地の出来事であり、彼がすぐに危機感を抱く理由が分かりにくい。時折身近に理不尽な出来事が起こった時も、これが単に偶発的な事象ではなく「この世」に何か構造的な問題があるということをどう想像しているんだろう。なんだかんだで平和な自分の生活を支えてもいる今の体制に、あえて疑問を抱いたのはなぜなのか、きちんと描かれていない気がする。

  史実の渋沢栄一が若い頃にどのような人物だったのかよく知らないけど、今の段階の彼を、あんなにピュアに描く必要はなかったように思う。あんな平和な環境に育ちながら、世の中に変わってほしいと考えるようになるんだから、例えば、一時は世の中にふてくされているような時間があったりしなければおかしいだろう。

 個人的に、『青天を衝け』と並行して『龍馬伝』を見返しているのだが、あまりに出来に差があると感じる。坂本龍馬も、本家は裕福な商家だったこともあり、『龍馬伝』劇中では「実は貧乏が理由で苦労した経験がそんなにない」というようなセリフを口にする。

 そんな彼でさえ「世の中を洗濯したい」と考えるようになる背景を、「龍馬もの」のフィクションはこれでもかと強調する。龍馬の地元における壮絶な身分格差(泥の中で上士に土下座させられる・病弱な母親を雨ざらしにされて事実上殺される等)や、階級間の世界観の分断(農民達に堤防の修理を呼びかけても「上士と違って政治にも参加していない、ただ飯を食っているだけの下士」の言うことなど全然聞いてくれない・能力さえあれば階級に関係なく人を重用するらしい人物に会ってみたら「単に能力次第で差別する人物」だった等)。『龍馬伝』では、巨大な黒船が間近に轟音を立てて横切っていくシーンによって、「外国の脅威」が強調された。龍馬が当然抱くであろう外敵への危機感を視聴者にも共感しやすくするための重要なシーンである。(龍馬の家庭環境を思わせる『龍馬伝』の前述の台詞は、物語の比較的終盤になって「そういえば」と思ってしまうようなタイミングで語られている。序盤から中盤においては、"洗濯前"の日本における悲惨な出来事が次々と描かれ続ける。)

 「龍馬もの」において語られ続けてきたこういったエピソードは、明治期の自由民権運動の頃に、運動のビジョンを彼の人生に重ね合わせながら執筆された小説『汗血千里の駒』以来、時にフィクションを織り交ぜたり(と思いきや「フィクションなので」と排除されたり)、その時代の社会の気分とうまく絡まり合いながら、連綿と繰り返されてきたドラマ化の試みの上に積み重ねられてきたものである。

 そう考えると、渋沢栄一という題材には、表面的な要素を摘まんで考えてみる限り、いま扱うには響きにくいものが含まれている。今の時代、「儒教」「道徳」は、不人気な悪者のほうが持ち出しがちな言葉である。オリンピック大好きなのに反オリンピズム的な発言で話題になったあの"森元さん"も、時折「天」に言及することがあるが、つまりそういうことなのだろう。(そういえば、「西欧由来の政治的正しさ」や「変革を唱える人物」も人気が無いので、仮に坂本龍馬をいま大河ドラマにするにしても、多少のアレンジが必要になるんだろうなぁ。)

 いま人気があるのは、疾病禍にあることもあり、儒教というより科学、道徳というより公益だろう。科学によれば、人の境遇を左右しているのは、儒教の説く天というより、環境や社会階層と呼んだほうがより正確なものであることがすでに明らかになっている。ただ、道徳や公益は別に相反するものでもないので、もっと言いかえやはぐらかしを駆使しながら、うまいことフィクションに落とし込めそうに思える。2021年に渋沢栄一をやるなら、儒教や道徳を工夫無くそのまま描くのではなく、「合理的な考え方」や「公益を重視する姿勢」というふうに、うまいこと言いかえながら描いたほうが、より響くだろうなぁと思う。

 

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