
「豚塗」は二郎系を名乗りつつも、インスタで初心者向けの解説つきメニューが充実していてわかりやすい。カスタマイズに伴う各具材の重量表まで用意されている。だから、この時に僕が食べたラーメンの麺の重量は300gで、もやしは200gであることを、僕は完璧に把握できているのだ。
…え!? 0.5キロ!?
…。(把握することと理解することはちがうのだということを"理解"した顔)
先日長々とnoteを書いた。
サムネ画像がありえんくらいうまくできたことにじわじわ満足している。ただ、中身については、自分の成長がみられないと感じる。
"推し活"がマジックワード化した結果、推し活を題材にした何かが賞を取ったり、推し活のマナー的な正解のパッケージみたいなものがどんどん商品として押し付けられている状況を感じています。"考えること"は仕事のときや本を読んでいる時に済ませ 推し活の時は考えないことに集中したいので正直困惑してます。どう対処したもんでしょうか 推し活そのものと一体化して回避不可能なパッケージになっていることもあって厄介です
出典:わいの昔のスパチャ
わいは結局何を見てもこれになっているということでしかない。ゲンロンでもVTuberでも、わいは良い観客になろうとしすぎなのだ。結局それで勝手に自分でイライラしているという話でしかない。
いわゆるエシカル消費と推し活はきわめて密接に結びついていると思うのだけど、これはつまるところ「消費するのに都合がいい」商品であること(/商品をつくること)を求める消費者の身ぶりにほかならない。
— Masaki Ueta (@reRenaissancist) 2026年7月17日
たまたま流れてきたツイート。植田はいつも賢いな。
記事を下読みしたChatGPTが「重圧のためにやまいに苦しんだという内容だったのに、また責任に縛られる終わり方なのはおかしい」とかなんとかうるさい。面倒になってきた。ChatGPTとはいったいなんなのか? どうせお前は仕様上の理由で『平和と愚かさ』の全文読めないだろ。
いま思えばこの時のChatGPTの指摘は正しかった。結局わいはこれなのだ。どこへ行っても考えすぎで、無意味な責任を負いすぎである。誰もわいにそんなことは期待していない。
しかし、自分が決して到達できないものを前に何かを負いたいと思ってしまうこの心の動きには何かがある。ある意味で僕は様々なものに勝手に美や崇高さを見出していると言える。これはわいのなかに、ある種のねじれた美意識が存在している状況証拠にほかならないのだろうか。この点では馬鹿は言い訳にならない。馬鹿でも投影はするからだ。何よりも、これは決して「推し活」という現代的な言葉で説明できる新しい現象でもないだろう。「けもフレVTuber推し活界隈出身のゲンロン読者」とかいうよくわからない出自の僕だからこそ考えるべき何かは、多分このあたりにある。





