wzmx’s diary

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レゴの酷い遊び方 ~経済戦争編~

 

 「レゴは作る行為を楽しむもの」という解釈もまた、大人の世界の押し付けになり得ると思うんですよね…これ難しいところなんですが…

 僕の個人的な体験談にすごく依った言い方になってしまうのだけれど、子供の頃、僕はレゴで作る行為より、作ったもので遊ぶほうが好きで、とても子供が作ったとは思えないような型にはまったショボい完成品に、緻密な世界観や物語を与える方に重きを置き過ぎていたために、親に咎められたことがある。

 「いつまで作ったものを大事に取っとくんだ、レゴとは作ったものを崩してまた作るものだぞ」と。子供が親にそう言われるという。

 既製のセットの完成品で遊ぶのに飽き、それを崩して手持ちのレゴの山に混ぜる瞬間なんかは、まるで儀式を執り行うかのような、厳かな気持ちだった。この飛行機にはもう二度と出会うことはないかもしれぬが、お前は本当にそれでよいのか?よいのだな、と。

 僕の作った作品、現実世界の模倣というより、まるで演劇の大道具小道具のようだった。いや、それよりももっと簡略化された、歴史マンガの隅とかにあるような、古代の建物の見取り図や地図のようだった。現実のパロディのパロディかよみたいな。ボードに一直線にブロックを並べてはめて、「これ家の壁ね」みたいな感じ。

 作り出したレゴの国々に、複雑な建国神話や外交関係の設定を与えて、国同士のプレゼンスを物語の筋に影響させようとしたりしていたので、一緒に遊んでいた友達に「意味が分からない」「何だよ同盟とか条約って」みたいなことを言われた記憶がある。

 特別な透明パーツ等に通貨としての価値を与えて、長期的な富(ブロック)の独占行為や、経済戦争を仕掛けようとしたことすらある。予め特定の透明パーツを手元に集めておいて、「ブロックのやり取り等で喧嘩が起こらないように、今後はこの透明パーツを交換の道具に使いましょう。これで円滑にレゴ遊びができますね」ってみんなに提案すんの。これがほんとのブロック経済。っていやほんとめんどくせぇっていうか陰湿な子供だな今思い返すと。友達の言う通りや。もう子供の発想じゃないわ今考えると。考えてみればそんなにブロックのやり取りで喧嘩起こっていた記憶ないし。ありもしない恐怖を煽って不要なルール作って自分の利益を守ることに成功していて、子供と言うより老害の発想である。末恐ろしいわ。下級生たちに「そもそもブロックの私的所有権とは何か」みたいなことを問われて革命起こされなくてよかった。

 書いてて思ったんだけど僕変な子供だなー。全然モデルケースにふさわしくないわ。すみません。

 子供は子供らしく素直に遊んでないと、こんな大人になっちゃうぞ。

少しでも理解したい、という思いの表れであるのなら別によいのです

  自分の方からこういう努力をしていくのってすごく大事なことだと僕も思うんですが、では相手がこれをやってきた時にどう受け止めるべきかと言うと…。

 これは特に田舎に引っ越して以降に自分のリアル周囲でよく起こりはじめたことなんですが、相手の台詞には「なるほど」「確かに」と頭についているはずなのに、後に続く言葉が完全にこっちの言ったことと真逆だったりする人がいる。

 読解力が無いだけだったり、少しでも理解したい、という思いの表れであるのなら別によいのです。むしろそういった喜ぶべきケースのほうが普通は多い。そういう人とは、多少考えが違ったとしても、とても良い友達になれる可能性があって、そういう出会いは、すごく喜ばしい体験の始まりだと思う。

 ただ、とりあえず納得したふりをして、最終的にはこっちを誘導して思い通りにしたいだけの、非常に偽善的な動機を持った人間、こういうのがたまにいる。

 善人ぶってるけど最後には手前の小さな世界のルールに他人を押し込むことがこういう人の思う平和だったりする。良い人に見えるから周囲の評価は悪くなかったり、むしろある程度の立場を持っていたり、尊敬を集めていることさえあるんだけど、実は譲歩することを知らない恐ろしいタイプ。若い人より中年以上の人間に多い気がする。

 普通は付き合いの長い人間って何だかんだで仲良くなれてたりするけど、こういうタイプの人間って、付き合いが長くなればなるほど心の中では距離ができていく。相手の言動に徐々にボロが見えてきて、こっちにもいい加減、変なものが伝わってくるからだ。ああ、この人と仲良くなるためのあらゆる努力、全部無駄だったんだな、とがっかりしてしまう。ただ、相手にこういう傾向があることを初見で見抜くのは難しい。

 小手先の「とりあえず同意しておく」テクニックを使ってその場その場を何とか出来ていることを根拠に、当人は自分のことを「自分はこのとおり、考えの違う人間とうまくやれておる。自分は多様性を許容できている寛容な人間だ」と思い込んでいたりする。それだけならまだマシで、「こんな自分でさえ受け入れにくく感じるような人間は相当に酷い人間だから、多少棘のある言葉をぶつけても平気だ」というところまで飛躍していたりすると、もはや、偽善的に光を放つ外套をまとった、ちょっとした小鬼である。

 本当に良い人たちも同じようなテクニックを使ってくるだけに、まじで厄介な話だ。

R25の思い出と、R25の記事で出会ったガジェットの思い出

r25.jp

 R25、懐かしいな。学生の頃、大人の人(将来自分の先輩になり得る年齢層の人)は、どういう事で悩んでいるのか、どういう価値観を持っているのか、そういったことをあらかじめ知っておきたくて、フリーペーパー版をよく読んでいた。人気だったので、駅でゲットするのが大変だった。学校が終わったら大急ぎで駅にいかないと手に入らない、激レアアイテムだった。
 R25の記事、常に良質というわけではなかったけれど、R25で気になった記事のキーワードで検索すると、こんなことがあったのか、ということが結構あって、ネットの話題で取り漏らしがあった時に、補完するのに役立った。
 R25の記事で出会ったガジェットで、個人的に思い出深いのが、SanDiskの音楽プレイヤー(sansa e200シリーズの6GBモデル)と、京ぽん(京セラ製のフルブラウザPHSOpera搭載)、そしてW-ZERO3[es]だ。

 

ブログ名はまだ決まっていない(仮):Sansa e280にRockBoxをインストールしてみた。


 当時のiPodは、僕にとっては高い買い物なのに、音楽再生機能しかなかった。まだiPod miniとかnanoが出たてとか、そのくらいの時期だったと思う。SanDiskのsansa e200は、それより1万円近く安い(2万切ってたっけ? 忘れた)のに、容量がそこそこあって、ラジオが受信でき、動画が再生でき、音声の録音もでき(わざわざボイレコ買わなくても授業を録音できたのは本当に助かった。)、microSDカードスロットも付いていた。ラジオの録音って出来たっけ? 出来た気がする。そんなにいろんなことが出来るDAP(携帯音楽プレイヤー)って、当時は大人向けで高かったのに、sansaは何故か安くて、メーカーもちゃんとしたとこで、衝撃的だった。

 クリックホイールを回すと、ホイール部分が妖しい青い光を出す、というギミックも良い。世の中的には多分ダサいんだけど、個人的には非常に妖しくて良い。

 あと、sansaシリーズにはRockboxっていうサードパーティー製のファームウェアがあって、Rockboyというプラグインを入れると、なんとゲームボーイエミュレーターが動くという話もあった。流石にそこまでの冒険は僕には出来なかったけど、「ファームウェア」という概念をそこで知ることができたのは大きい。(知ることができて楽しいという意味で)

 京ぽんは、初めて僕が手にした携帯電話だった。PHSだけど。見た目は一般的な二つ折りのPHSなんだけど、何故かOperaが搭載されていて、パソコンと同じインターネットが見れた。「携帯電話向けのネットの情報量じゃネットの意味ない」と思っていた僕は、携帯電話に全く興味が無かったんだけど、R25京ぽんの記事を見つけて、もう飛びついた。京ぽんで、お友達の広川さんのサイトを見たり、学校でネットの辞書を使ったり、自分のヒョームページ(笑)を見たりして、楽しかった。Operaってすごいブラウザなんだなって思った。本来PC用のブラウザだったのに、小さい機械にもこうやって載っているのがすごい、と思った。将来、いろんな家電やゲーム機にOperaが載ったら楽しいだろうな、洗濯機でブラウジングできるとか、アホみたいな未来が来たらヤバい、どうしよう…!とか考えて、わくわくしていた。

 現実には、IoTみたいに、単にネットに繋がる以上の未来が来ている。本当にすごい。

W-ZERO3 [es]:シャープ


 W-ZERO3[es]も大好きだった。カシャッて物理キーボードが出る、シャープ製の、白い筆箱みたいな、でかいスマホ。本当にかっこよかった。カシャッってなるのがよかった。スイッチを入れるとお馴染みのWindowsのロゴが出る、それにも興奮した。ファイル構成等、勝手知ったるWindowsに中身が近かったので、自分で色々いじれるのがありがたかった。ググればだいたい何とかなる感じがあった。
 今、iPhoneを持ち歩いてると、「スマホ」を持ち歩いてるって感じがするけど、W-ZERO3[es]を持ち歩いていた頃は、スマホを持ち歩いているというより、小さいパソコンを持ち歩いている、という実感がすごくて、興奮する体験だった。もっとも、スマホって本来、小さいパソコンなのだった。W-ZERO3のお陰で、体験としてそれを理解できたのは大きい。(知ることができて楽しいという意味で)
 スマホ自体が珍しかったので、あれ持ち歩いていると、エアコンのリモコンを持ち歩いてるとか言われて茶化された。それ携帯かよ的な意味で。

Advanced/W-ZERO3 [es]:シャープ


 その後、後継機のAdvanced W-ZERO3[es]に乗り換えた。前の奴より少しだけ小さくて、銀色のやつ。今度は髭剃りを持ち歩いてるとか言われた。全部懐かしい。

 

謝った人はちゃんと許されてほしい【ガッテンの件】

news.yahoo.co.jp

www.sponichi.co.jp

 ガッテン、子供の頃はみてたけど、今はみてないからどんな番組なのか知らないけど、確かにみんなが言うように、胡散臭い番組なのかもしれない。正直僕もあんまり見たいと思わないし、放送開始から22年も経って、テレビ以外にもああいった情報を手に入れる手段は増えたので、徐々に役割を終えつつあるのかもしれない。でも、今回のNHKの対応はとても早かったし、テレビ業界特有の縛りの多い中で、出来得る限りのことをちゃんとやってたので、そこはえらいと思う。
 NHKに限らず、というか、テレビに限らず、ネット上の大手メディアのサイトとかでもそうなんだけど、メディアが誤報やらかした時の対応、最悪なのばかりで、誤報だったのに記事消さないわ、記事に追記すらもしないわ、たまに追記してもバレないようにこっそりやっており追記したことをちゃんとTwitter等で周知しないわ、散々な対応ばかりで、本当に酷かった。これは、慰安婦問題やKY報道の件ですっかり人気のなくなった朝日新聞だけの問題じゃなくて、産経とか東京新聞とか、どこもそう。
 誤報やらかした時、誤報の社会的な影響が大きければ、今回のNHKくらいの対応はするのが当たり前、という風潮になってほしい。メディア側は大変になるかもしれないけど、謝るのは大事なことだと思うし、そもそも、きちんと謝ればみんなに許してもらえる社会になれば、怖がらずに間違いを認めてくれるようになりそうなのにな~と思う。そんなのはメディアの中の人たちを信用し過ぎなのではという気が自分でもするけど、最低限そのくらいの懐の深さがこちらにも無いと、向こうが変わる可能性なんて一切ないと思う。
 そのためにも、きちんと出来たことはよくできましたとちゃんと評価していかないといけないと思う。善良アニメ見た時だけ素直な人間になって、見終わったら元に戻るのやめてほしい。そんなんじゃずっと何も変わらない。ちゃんと普段から善き人間でいればいいのに、と思う。

漂流というより、もう営みみたいになってる

kai-you.net

 自分の中の漂流ものは、うんと小さい子供の頃、『ロビンソン・クルーソー』『十五少年漂流記』を買い与えられた時に始まり、中学生の頃に自分で見つけ出した『神秘の島』にネモ艦長が現れた時に何かがピークを迎え、高校生の頃にいろんな人との縁で出会った『蠅の王』で終わった。『蠅の王』に出会った時、僕の中に突然現実世界の魔術が現れて、全てを流し去ったような気がする。「ジェダイはそんなものは求めない」と言われた時のルーク・スカイウォーカーの表情を思い出して欲しい。とは言え、当時の僕は、ああいった現実世界の響きにこそ本物らしさを感じていた時期を過ごしており、そういったものに惹かれていた。あの時、長い探求の旅は終わったんだと思っていた。満足していた。今考えればとんでもない話である。


 普通の子供は、どこで漂流ものに出会うんだろう。『ナディア』で始まり、そこで何となく終わるんだろうか。『ナディア』のネモ艦長は、魂の器をしっかり持ちすぎていて、全然「誰でもない男」に見えない。誰でもない男はもっと悲しそうにしていなければならない。そんなことはないですかね? これも個人的な呪いですか?

 

https://twitter.com/_wzm/status/812628709148532736

https://twitter.com/_wzm/status/831152080119164928

スターバックスで無料でコーヒーが飲めるたった一つの裏技🌟🤗 その1

 昔、友達がスタバ奢ってくれるというので、遠慮なくスタバの濃ゆいドリップコーヒーを頂戴したんですが、ほんとにドリップコーヒーでいいの?もっと値段の高いフラペチーノとかじゃなくてよかったの?と何度も聞かれて、いいんだよ俺はこのドリップコーヒーで、俺はドリップコーヒーが好きなんだよ、俺が飲むコーヒーはな、苦くて、真っ黒でないといけねぇ、まるで、ほら、こっちを覗き込んでみろ、こっちもお前を覗き返してやる、お前自身の闇で、お前をほろぼしてやる、そういう色をたたえたコーヒーでないといけねぇ、そうでないと俺の儀式が完了できねぇ、俺がカフェオレとか飲みたくなるのはな、菓子とか食いたい気分の時だけだぜって、そういう理由だったんだけど、言えなかった。言えるわけない。奢った相手にいきなりそんなめんどくせぇ話をされたって、気持ちよく奢れねぇだろって、そう思ったからなんだけど、きっと遠慮されたって思われただろうな。

 自分を貫くって難しい。自分を貫いた果実として和解を手にするのはもっと難しい。それが出来るやつだけが、本当の偉人になれるんだろう。

この世界の片隅に帰ってきてほしくないヒトとぼくとの関係について

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 『帰ってきたヒトラー』観た。結構よかった。いや、すごくよかった。過去のヒトラー映画のちょうどよい程度のパロディなどもすごくよかった。観てよかった。みんな達もとりあえず観ればいいと思う。

 

 政治的な話、たまに具体的な誰かの話をしすぎている(ネオナチの人達のことじゃない。ヒトラーの直系である彼らは特別扱いにせざるを得ない。)けど、今のドイツでこういう話をしようとしたら避けて通れないのか。どちらかに肩入れするような事ここに書きたくないので、これは飽くまでこの映画の歴史的な価値の話ってことにしてほしいんだけど、あのくだりって本当に映画に必要だったんだろうか。

 「ヒトラーは我々の中でまだ生きている」って台詞はすごい良いんだけど、我々がこの台詞について考える際、我々は"我々"の中に本当に自分を含めるだろうか。結局この問題を考える時に一番大事なのってそこなんじゃないですか。具体的な誰かの話をすることによって"我々"の範囲が無茶苦茶狭くなってる。我々ではない誰かを指差して物語を語って終わりじゃ、お互いにやってること進歩してない。

 この映画に関してはもっともっと主語を大きくしたりしてもよかったと思う。「ドイツのあいつら」って決めてしまったので、ここ何年かにしか響かない映画になった可能性ある。

 「そこを曖昧にすると肝心のあいつらがこの映画を他人事のように受け止めるかもしれない」という懸念はすごく分かる。でもそのあたりは思い切って曖昧にしてしまったほうが、永遠に響き続ける名作になった可能性が高まったと思う。

 お話自体はものすごくよかったから残念だ、と感じる。我々が当分の間は向き合い続けなければいけない問題を扱った映画だからだ。この作品は当分の間は残ってほしい。

 

 それとも、『この世界の片隅に』の太極旗みたいに、「この当時の人はこのように感じました」という、一つの率直な記憶の記録として残っていくのだろうか。それならありがたい気もする。

 

 いろいろ否定的に聞こえることも書いてしまったけど、これは良い映画なのでみんな達も是非観てください。オススメ具合としてはシン・ゴジラを10として8、ローグワンを10として9といった感じで、これはかなり高いし、とりあえず一度は観るべきという水準に達しているといえます。僕がこの2本を引き合いに出している時点でそういうことです!

 『この世界の片隅に』を10とすると…これはちょっとなんも言えない。