wzmx’s diary

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台風が直撃して気圧が下がったので、僕は死んだように眠っていた。 -暗黒コロッケ編-

 台風が直撃して気圧が下がったので、僕は死んだように眠っていた。
 
 森を抜けると、渓谷にかかる橋だった。森の天蓋は渓谷の上にその隙間を開き、そこから真夏の日差しの光が広がって、僕らを包み込んだ。川のせせらぎが聞こえる。3人で橋を渡り終えようとした時、一人が「コロッケがない」と言い出した。タッパーに大事に詰めておいたコロッケが、いつの間にか足りなくなったと言う。タッパーの中を見ると、俵型のコロッケが綺麗に並べられているが、確かに不自然な空間が空いており、下に敷かれたキッチンペーパーに多少の油の染みが残っている。そこにあったコロッケが幾つか消えている。
 橋のたもとから渓谷に降り、皆でコロッケを探した。川の流れに足をつける者もいた。一人が「あった!」と叫び、一画を指差した。見ると、一際大きく、お城の石垣の石のような、巨大な岩が鎮座していた。『西遊記』の芭蕉扇のような一枚の大きな葉が岩に被さっており、葉の下の暗がりの中に俵型のコロッケが見える。
 「あそこにもある!」と誰かが言って、河原のあるところを指差した。見ると、河原の石の中に、一つの俵型のコロッケが自然に混じり、転がっている。僕はふと、足元の河原に視線を落とし、適当な大きめの石を持ち上げてみた。石の下に、俵型のコロッケがいた。視線を上げて、上流の方を見た。向こうの岩の上にも、俵型のコロッケが鎮座している。すぐそこの水中を覗いてみた。コロッケだ。コロッケが沈んでいる。見たところ、すごく新鮮だ。衣の鮮やかなキツネ色を見て、思わずコロッケの内部のほくほくのジャガイモを想像した。ごくりと唾を飲む。
 多すぎる。ここはコロッケが多すぎる。ここにあるのは本当に自然のコロッケだろうか。一体誰が、何のために…なぜこんなところに。僕らがここにやって来ることを知っていた誰かが置いていったのだろうか。何のために? 僕らをどこかに誘導して、罠にかけるため? だが、見たところコロッケの配置には法則性が無く、どこかに誘導するような意図は感じられなかった。
 
 私はそこで目が覚めた。
 
 私は、見た夢をここに書き留めながら、コロッケは人間や動物ではないので、こっちに歩いてきたとしてもそのことに意味などなく、もし意味を見出すとしても、それは観察者である自分次第のことなので、結局は自分のせいなのだ、と、改めて思った。

趣味と孤独 -ひとのガンダムを捨てるな-

 

 個人的に、「趣味とは極めるもの」という考え方には大変に疑問を持っています。趣味とは、それ自体を道(どう)のように極めることが最終目的なのではなく、趣味を通じて適切な孤独を自らの内に飼育することが目的の主眼にあったはずで、それが道(どう)のような形態をとっているのは飽くまで便宜上の理由であったはずです。実際、同じ趣味を持つ者同士で、それを極めた者とそうでない者の区別が生まれると、自分の中の孤独を「師匠」のような他人に預ける、というような、不適切な事態が生じかねません。
 そのようなわけで、趣味を持っていない人間は適切な孤独も持てていない、ということが往々にしてあります。自分はそういう人間だと当人が割り切れれば、その瞬間に適切な孤独がその人の内に芽生えるので問題は起こらないのですが、それができない人間の中には、周囲の人間を自分の世界観に押し込むことで安易に孤独を手に入れようとする人がいます。そういう人は自分ではなく身近な人の変革を試みようとして周囲のあらゆる状況を支配しようとします。例えば他人の持ち物を勝手に捨てたり、暴力を振るったり、相手の人生における重大な決定に無責任に介入しようとします。
 趣味とは、他人への執着を捨て、自分をよりよく統治するための簡単な方法の一つです。それが理解できていない人間が他人の領域を侵略しようとするのだと思います。


以下補足
※適切な孤独を養う方法として、趣味を持つこと以外に知られているものとして、例えば哲学や学問をするというものがあります。これはそこそこハードルが高いので、多くの人は趣味を持つことを選びます。

※長年愛好している趣味を持っていたり、それを極めている人間の中にも、こういった他人への侵略を試みる人がいます。趣味を持ってはいても、それを通じて適切な孤独を養うことを怠っていると、こういう人間になるのだろうと思います。新参者をさげすむ人たちや、注目を集めるための意図的な迷惑行為を披露する人たちがこれに当たります。意図的な迷惑行為とは、例えば同級生たちが嫌がるのを分かっていて給食の時間にアニソンを流す、といったような行為のことです。

もうだめ

 

正直、やらかした。久々に、やってしまった。体は発狂しながら悲鳴を上げ、精神はすっかり満たされて狂喜乱舞している。全てを御さなければならない僕は、とにかく横になっている。こんな馬鹿なことは生涯で最後にしなければならない。

ジブリを初めてちゃんと観た時の気持ち

 

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 ジブリ映画をはじめてちゃんと観た時、確かにこんな気持ちになる。
 当時中学生くらいだったと思うけど、録画していたナウシカラピュタを初めて「ちゃんと観れた」と感じたあの時、自分がまともに物を考えられる年齢になりつつあることに気づいた気がする。
 ジブリ、自分の中で昔のアニメになり始めていた。それは別に間違いではないと思うんだけど、初めてジブリをちゃんと観た時のこの感覚も、今日この日に思い出せてよかったと思う。

レゴの酷い遊び方 ~経済戦争編~

 

 「レゴは作る行為を楽しむもの」という解釈もまた、大人の世界の押し付けになり得ると思うんですよね…これ難しいところなんですが…

 僕の個人的な体験談にすごく依った言い方になってしまうのだけれど、子供の頃、僕はレゴで作る行為より、作ったもので遊ぶほうが好きで、とても子供が作ったとは思えないような型にはまったショボい完成品に、緻密な世界観や物語を与える方に重きを置き過ぎていたために、親に咎められたことがある。

 「いつまで作ったものを大事に取っとくんだ、レゴとは作ったものを崩してまた作るものだぞ」と。子供が親にそう言われるという。

 既製のセットの完成品で遊ぶのに飽き、それを崩して手持ちのレゴの山に混ぜる瞬間なんかは、まるで儀式を執り行うかのような、厳かな気持ちだった。この飛行機にはもう二度と出会うことはないかもしれぬが、お前は本当にそれでよいのか?よいのだな、と。

 僕の作った作品、現実世界の模倣というより、まるで演劇の大道具小道具のようだった。いや、それよりももっと簡略化された、歴史マンガの隅とかにあるような、古代の建物の見取り図や地図のようだった。現実のパロディのパロディかよみたいな。ボードに一直線にブロックを並べてはめて、「これ家の壁ね」みたいな感じ。

 作り出したレゴの国々に、複雑な建国神話や外交関係の設定を与えて、国同士のプレゼンスを物語の筋に影響させようとしたりしていたので、一緒に遊んでいた友達に「意味が分からない」「何だよ同盟とか条約って」みたいなことを言われた記憶がある。

 特別な透明パーツ等に通貨としての価値を与えて、長期的な富(ブロック)の独占行為や、経済戦争を仕掛けようとしたことすらある。予め特定の透明パーツを手元に集めておいて、「ブロックのやり取り等で喧嘩が起こらないように、今後はこの透明パーツを交換の道具に使いましょう。これで円滑にレゴ遊びができますね」ってみんなに提案すんの。これがほんとのブロック経済。っていやほんとめんどくせぇっていうか陰湿な子供だな今思い返すと。友達の言う通りや。もう子供の発想じゃないわ今考えると。考えてみればそんなにブロックのやり取りで喧嘩起こっていた記憶ないし。ありもしない恐怖を煽って不要なルール作って自分の利益を守ることに成功していて、子供と言うより老害の発想である。末恐ろしいわ。下級生たちに「そもそもブロックの私的所有権とは何か」みたいなことを問われて革命起こされなくてよかった。

 書いてて思ったんだけど僕変な子供だなー。全然モデルケースにふさわしくないわ。すみません。

 子供は子供らしく素直に遊んでないと、こんな大人になっちゃうぞ。

少しでも理解したい、という思いの表れであるのなら別によいのです

  自分の方からこういう努力をしていくのってすごく大事なことだと僕も思うんですが、では相手がこれをやってきた時にどう受け止めるべきかと言うと…。

 これは特に田舎に引っ越して以降に自分のリアル周囲でよく起こりはじめたことなんですが、相手の台詞には「なるほど」「確かに」と頭についているはずなのに、後に続く言葉が完全にこっちの言ったことと真逆だったりする人がいる。

 読解力が無いだけだったり、少しでも理解したい、という思いの表れであるのなら別によいのです。むしろそういった喜ぶべきケースのほうが普通は多い。そういう人とは、多少考えが違ったとしても、とても良い友達になれる可能性があって、そういう出会いは、すごく喜ばしい体験の始まりだと思う。

 ただ、とりあえず納得したふりをして、最終的にはこっちを誘導して思い通りにしたいだけの、非常に偽善的な動機を持った人間、こういうのがたまにいる。

 善人ぶってるけど最後には手前の小さな世界のルールに他人を押し込むことがこういう人の思う平和だったりする。良い人に見えるから周囲の評価は悪くなかったり、むしろある程度の立場を持っていたり、尊敬を集めていることさえあるんだけど、実は譲歩することを知らない恐ろしいタイプ。若い人より中年以上の人間に多い気がする。

 普通は付き合いの長い人間って何だかんだで仲良くなれてたりするけど、こういうタイプの人間って、付き合いが長くなればなるほど心の中では距離ができていく。相手の言動に徐々にボロが見えてきて、こっちにもいい加減、変なものが伝わってくるからだ。ああ、この人と仲良くなるためのあらゆる努力、全部無駄だったんだな、とがっかりしてしまう。ただ、相手にこういう傾向があることを初見で見抜くのは難しい。

 小手先の「とりあえず同意しておく」テクニックを使ってその場その場を何とか出来ていることを根拠に、当人は自分のことを「自分はこのとおり、考えの違う人間とうまくやれておる。自分は多様性を許容できている寛容な人間だ」と思い込んでいたりする。それだけならまだマシで、「こんな自分でさえ受け入れにくく感じるような人間は相当に酷い人間だから、多少棘のある言葉をぶつけても平気だ」というところまで飛躍していたりすると、もはや、偽善的に光を放つ外套をまとった、ちょっとした小鬼である。

 本当に良い人たちも同じようなテクニックを使ってくるだけに、まじで厄介な話だ。

R25の思い出と、R25の記事で出会ったガジェットの思い出

r25.jp

 R25、懐かしいな。学生の頃、大人の人(将来自分の先輩になり得る年齢層の人)は、どういう事で悩んでいるのか、どういう価値観を持っているのか、そういったことをあらかじめ知っておきたくて、フリーペーパー版をよく読んでいた。人気だったので、駅でゲットするのが大変だった。学校が終わったら大急ぎで駅にいかないと手に入らない、激レアアイテムだった。
 R25の記事、常に良質というわけではなかったけれど、R25で気になった記事のキーワードで検索すると、こんなことがあったのか、ということが結構あって、ネットの話題で取り漏らしがあった時に、補完するのに役立った。
 R25の記事で出会ったガジェットで、個人的に思い出深いのが、SanDiskの音楽プレイヤー(sansa e200シリーズの6GBモデル)と、京ぽん(京セラ製のフルブラウザPHSOpera搭載)、そしてW-ZERO3[es]だ。

 

ブログ名はまだ決まっていない(仮):Sansa e280にRockBoxをインストールしてみた。


 当時のiPodは、僕にとっては高い買い物なのに、音楽再生機能しかなかった。まだiPod miniとかnanoが出たてとか、そのくらいの時期だったと思う。SanDiskのsansa e200は、それより1万円近く安い(2万切ってたっけ? 忘れた)のに、容量がそこそこあって、ラジオが受信でき、動画が再生でき、音声の録音もでき(わざわざボイレコ買わなくても授業を録音できたのは本当に助かった。)、microSDカードスロットも付いていた。ラジオの録音って出来たっけ? 出来た気がする。そんなにいろんなことが出来るDAP(携帯音楽プレイヤー)って、当時は大人向けで高かったのに、sansaは何故か安くて、メーカーもちゃんとしたとこで、衝撃的だった。

 クリックホイールを回すと、ホイール部分が妖しい青い光を出す、というギミックも良い。世の中的には多分ダサいんだけど、個人的には非常に妖しくて良い。

 あと、sansaシリーズにはRockboxっていうサードパーティー製のファームウェアがあって、Rockboyというプラグインを入れると、なんとゲームボーイエミュレーターが動くという話もあった。流石にそこまでの冒険は僕には出来なかったけど、「ファームウェア」という概念をそこで知ることができたのは大きい。(知ることができて楽しいという意味で)

 京ぽんは、初めて僕が手にした携帯電話だった。PHSだけど。見た目は一般的な二つ折りのPHSなんだけど、何故かOperaが搭載されていて、パソコンと同じインターネットが見れた。「携帯電話向けのネットの情報量じゃネットの意味ない」と思っていた僕は、携帯電話に全く興味が無かったんだけど、R25京ぽんの記事を見つけて、もう飛びついた。京ぽんで、お友達の広川さんのサイトを見たり、学校でネットの辞書を使ったり、自分のヒョームページ(笑)を見たりして、楽しかった。Operaってすごいブラウザなんだなって思った。本来PC用のブラウザだったのに、小さい機械にもこうやって載っているのがすごい、と思った。将来、いろんな家電やゲーム機にOperaが載ったら楽しいだろうな、洗濯機でブラウジングできるとか、アホみたいな未来が来たらヤバい、どうしよう…!とか考えて、わくわくしていた。

 現実には、IoTみたいに、単にネットに繋がる以上の未来が来ている。本当にすごい。

W-ZERO3 [es]:シャープ


 W-ZERO3[es]も大好きだった。カシャッて物理キーボードが出る、シャープ製の、白い筆箱みたいな、でかいスマホ。本当にかっこよかった。カシャッってなるのがよかった。スイッチを入れるとお馴染みのWindowsのロゴが出る、それにも興奮した。ファイル構成等、勝手知ったるWindowsに中身が近かったので、自分で色々いじれるのがありがたかった。ググればだいたい何とかなる感じがあった。
 今、iPhoneを持ち歩いてると、「スマホ」を持ち歩いてるって感じがするけど、W-ZERO3[es]を持ち歩いていた頃は、スマホを持ち歩いているというより、小さいパソコンを持ち歩いている、という実感がすごくて、興奮する体験だった。もっとも、スマホって本来、小さいパソコンなのだった。W-ZERO3のお陰で、体験としてそれを理解できたのは大きい。(知ることができて楽しいという意味で)
 スマホ自体が珍しかったので、あれ持ち歩いていると、エアコンのリモコンを持ち歩いてるとか言われて茶化された。それ携帯かよ的な意味で。

Advanced/W-ZERO3 [es]:シャープ


 その後、後継機のAdvanced W-ZERO3[es]に乗り換えた。前の奴より少しだけ小さくて、銀色のやつ。今度は髭剃りを持ち歩いてるとか言われた。全部懐かしい。