wzmx’s diary

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『ズートピア』が今となっては微妙だった話

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 『ズートピア』確かに良い話だし、こんな映画がこの世に存在していてくれてよかったっていうくらいのものではあるんだけど、なんか素直に感動しきれない自分もいる…。
 お国柄ジョークとか、アニメや映画でよくある偏見まみれの描写*1とか、変わった集団を観察するのとか好きなので。
 お前らは好きじゃないの?

 お前の感性は前前世紀のものだって言われたら、恐らくその指摘は正しいと思う。

 偏見のない世界があり得るとしたら、未知のものを自分の目で観察して、解釈し、自分なりの答えを出すのを誰もがやめてしまった世界なんじゃないか。なんでもカテゴライズしようとする、前前世紀の博物学者がいない世界だ。誰もが自分の頭で考えるのをやめ、他人の作った正しい解釈だけを鵜呑みにする。それって素晴らしい世界か? そんな世界で成熟した社会ってあり得る?

 今の時代、偏見を持たれてるならまだ良いほうで、何の関心も払われずただ滅んでいくだけの人たちもいる。そういう問題のほうが深刻だと思う。そういう問題に対峙するためには、まずは対象となる未知の集団に接触しなければならない。そこには前前世紀の博物学者のような好奇心が共にあるかもしれない。その際、まずは何らかの偏見(仮説ともいう)を抱かなければ、何も始まらないのでは? 何も始まらなければ、全てが終わっていくだけなのでは?

 人が「偏見をやめろ」と言う時、ただ「お前はバカだから考えるのをやめろ」と言っているだけのことがよくある。そんな愛のない忠告を素直に受け入れるお人好しがいるのか?と思えば、これが意外といる。大勢いる。そういった経緯で偏見をやめた人は、偏見をやめるのと同時に考えるのもやめているので、分かりやすく差別っぽいフレーズが含まれているというだけで過剰に反応したりする。そんなだから、あらゆる表現に対して不寛容なこの現状になったのだと思う。

 人には間違える権利と許す義務があるのではないか。しかしまあ、全く理不尽な両輪だ。間違えるほうは権利で、許す方は義務なのか! でも本来、「寛容」ってそのくらいの意味の言葉ですよね。

 ウサギが、自分の無自覚な偏見をキツネに許してもらうために、ある程度の反省や謝罪の手続きが必要なあたり、この映画は20世紀末くらいで止まっていると思う。人はトランプのような人が政権を取っている現状を「後退している」と言うが、何のことはない。誰も一歩も進んでなかったんだと思う。

 もう愛があればなんでもいいよ。もっと大量の愛と善意で舗装してくれないか。その先が地獄だと言うなら、共に落ちようではないか。愛があれば何も怖くない。

 

 

*1:ガルパンだいすき