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#青天を衝け 11話「横濱焼き討ち計画」まで観た。

 題材はいいはずなのに…もっとおもしろくなるはずなのに…と思ってばかりいる。

 草彅剛が、攘夷を信じる他人を台詞で馬鹿にしてマウントを取るばかりで、「なぜ攘夷が不可能なのか」をあまり丁寧に説明しようとしないからいまいちなんだと思う。『龍馬伝』だと、勝海舟武田鉄矢)が、大枚はたいて買った地球儀を持ち歩いて、広い世界の中にぽつんと浮かんでいる日本列島を龍馬や岡田以蔵に指し示し、「日本は世界の国々と比べるといかにちっぽけか(故に攘夷がいかに無謀か)」と視覚的に一発で分からせるシーンがあった。こういう丁寧で説得力のある説明が『青天を衝け』には欠けている。

 このシーンはひどかった。草彅剛を賢く見せるために、三条実美に愚かな振る舞いをさせていた。こんなシーンを入れるくらいなら、草彅自身の口から当時の日本の国際的な立ち位置をもっと丁寧に説明させるべきだと思う。徳川慶喜の賢さを描写するにあたり、「自分の考えをいかに上手く言語化できるか」ではなく、「周囲の人間を殊更に愚かに描く」というやり方に頼ってしまっている。「攘夷はこんなにおかしな思想だったが、徳川慶喜はまともだった」ではなく、「攘夷を信じる若者はこんな事情で信じていたが、徳川慶喜はその上をいっていた」であってほしいのである。草彅剛をすまし顔で黙らせていないで、もっと彼の言葉から彼の賢さを感じたい。(『龍馬伝』は「攘夷を信じる若者はこんな事情で信じていたが、坂本龍馬はその上をいっていた。めちゃくちゃ賢くなって大成功した岩崎弥太郎でさえ彼には泣き笑いしながら負けを認めていた」だったからドチャクソおもしろかったんだと思う。『青天を衝け』だって、無駄にアホな人物など出さず、「坂本龍馬」「岩崎弥太郎」の部分を任意の人物に入れ替えれば、もっともっとおもしろくなるはずなんだよ!)

 

 慎之介本人も攘夷思想の持ち主であった、ということが劇中で説明されていないので、突然やってきたわけのわからないことを口走る若者にいきなり武器を売り出す狂人のようになっていた。

 

 『青天を衝け』の感想をTwitter検索で探してみると、「攘夷をおかしな思想として誤魔化さずに描いておりえらい」というような感想が見受けられるが、お前は大河ドラマ初めてか? 初めて大河ドラマを観ているのか? 『龍馬伝』の序盤における土佐勤王党も、若さと流行に乗って間違った方向に走ってしまう集団を誤魔化さずに描いていたが、ここまで退屈ではなかった。

 『青天を衝け』の若者たちは、動乱の時代にヤバいことをやらかそうとしているにもかかわらず、妙にさわやかな連中だと思う。さわやかなやつらがわけもなくさわやかにテロをしようとしており、たいへん妙ちくりんなドラマだと思う。普通の若者が、なぜそんなヤバいことをしたくなってしまったのか、きちんと理由を説明しなければならない。その理由をちゃんと説明できないのは、「誤魔化さず正直だから」なのではなく、「説明する能力がないから」あるいは「当時の若者たちの見ていた世界を想像する力がないから」なのではないかと、今のところはそう感じている。

 ほんと、題材はいいはずなんだからさ! もっとおもしろくしてくれ!

www.tbsradio.jp

 TBSラジオのこれ、大河ドラマよりも、100分de名著よりもおもしろかった…。NHKならもっとおもしろいもの作れるはずだろ頼むよ~。

 

 

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#青天を衝け 今のところの感想。「目標を青天にいれてスイッチ…目標を青天にいれてスイッチ…」

 エピソードを淡々と消化していくだけのドラマに思える。とくに感情が動かない。

 渋沢栄一がどうしてそこまで子供を待ち望んでいたのかも特に説明していないので、懐妊が分かって喜んでいるシーンもなんだか他人事に思えて一緒に喜べないし、栄一の妻が「最近はしかめっ面ばかりだった」と言うシーンも(いやいや最近の渋沢栄一は江戸に行けたりしたし割と楽しそうな顔が多かっただろ)と思ってしまう。

 「その手で安藤を斬れ」のシーンも、俳優さんががんばって迫力を出していたが、なんかノリきれない。俳優さんが悪いのではなく、大橋訥庵をただ恐怖を煽る偏屈な悪者のように描いている脚本のせいだろう。例えば悪役なりにカリスマ性のある人物のように描いたりしていないので、(尾高がどうしてこんな無茶を言うやつについていってるのか意味が分からないな)という感想で終わってしまい、特段の感情が湧かない。『龍馬伝』で岡田以蔵に人斬りをやらせた武市半平太の描写と比べると、今作の大橋訥庵はえらく魅力に欠け、ただ筋の通らないことを言い募るだけの偏屈じじいになっている。フィクションなんだからどんどん適当にいい感じにしたらいいのにと思えてくる。

call-of-history.com

 『龍馬伝』だと、金に見立てた饅頭をおぼんか何かに載せながら、当時の貿易を通じていかに海外に金が流出し国内経済が混乱していったか、龍馬が説明を受けるシーンがあった。教養のない龍馬(というか我々視聴者)にも理解しやすいよう、視覚的に伝わりやすい解説になっていた。『青天を衝け』において同様の意図を持つシーンとしては、単に閑散とした江戸の街で少々の人々が騒いでいるのが少し映されるだけで、これではインパクトにも説得力にも欠ける。せっかく渋沢栄一を扱っているのに、『龍馬伝』よりも経済に関する描写があっさりしているのは正直どうなんだ。

 『いだてん』が、よく知らない人物がどんどん出てくるにも関わらず大変おもしろかったので、『青天を衝け』にも期待していたのに、本当に残念だと思う。『いだてん』と違い、登場人物と気持ちを一つにしてストーリーを伴走できないので、劇中の全てが他人事に思える。

 

news.yahoo.co.jp

放送開始直後の2月に行われたインタビューで、橋本愛が印象に残った撮影を回想した。結婚初夜で、栄一が「抱いていいか」と迫って来た時に「何だこれは! キュンキュンを100%詰め込んだセリフだ」と思ったと明かしていた。「こっ恥ずかしくて、本番までに恥ずかしさを取るのに一生懸命だった」とも。そんな心理状態で演技していた橋本の表情を楽しみにしていた。

 それなのに、もう妊娠? 橋本が「キュンキュンした」初夜の場面は、どこに行ってしまったんだろう。番組関係者に聞いてみると「該当シーンは放送時間の都合上、カットになったようです」。うーん、残念。

栄一が江戸へ出入りし、攘夷の思いを抱き始めた。従来の“江戸編”と平和な“深谷編”に加え、栄一や喜作(高良健吾)、尾高惇忠(田辺誠一)のきな臭い“攘夷編”も描かれ始め、ネタが増えている。現場での数回にわたる台本の作り替えに加え、局内では放送直前までタイトルの練り直し、映像の編集作業に追われているというのも、うなずける。

 まだ放送開始2か月目だが、今のところ、よく知らない人物の、よく知らないエピソードが淡々と流れてくるだけのドラマになっている。

 

 

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『 #青天を衝け 』、衝くならちゃんとしゃがんでから衝いたほうが勢いが出ると思う

 『青天を衝け』、今週の草彅剛は、大きな声で怒った時の滑舌が個人的に少し気になったけれども、SNS上ではその演技は評判のようで、"青天を衝け"のTwitter検索結果は彼の話題で持ちきりのようである。逆に言うと、『青天を衝け』には、草彅剛くらいしか見どころがないように感じる。

 肝心の渋沢栄一パートがつまらない。

 なんでだろう。ここまでの渋沢の歩みにいまいち困難が少ないためか盛り上がりに欠けて感じられるからだろうか。ストーリー運びの根底に無理に儒教の道徳を敷こうとした結果、よく言えば純朴な、悪く言えば真っ当すぎてつまらない人の話になったためだろうか。よく分からない。

 少なくとも、今の段階の彼に「世の中を変えたい」と言わせる必要は無いように思える。今の渋沢は比較的恵まれているにも関わらず、なぜ「この世を変えたい」と思うんだろう。農民としては裕福な家庭に生まれ、田舎で決闘したり、結婚したり、勉強したりしているだけである。合理的な彼は「この世がこのまま続いていってくれたほうがいい」と感じるのではないだろうか。安政の大獄や黒船の噂が彼のところに届いても、所詮遠くの土地の出来事であり、彼がすぐに危機感を抱く理由が分かりにくい。時折身近に理不尽な出来事が起こった時も、これが単に偶発的な事象ではなく「この世」に何か構造的な問題があるということをどう想像しているんだろう。なんだかんだで平和な自分の生活を支えてもいる今の体制に、あえて疑問を抱いたのはなぜなのか、きちんと描かれていない気がする。

  史実の渋沢栄一が若い頃にどのような人物だったのかよく知らないけど、今の段階の彼を、あんなにピュアに描く必要はなかったように思う。あんな平和な環境に育ちながら、世の中に変わってほしいと考えるようになるんだから、例えば、一時は世の中にふてくされているような時間があったりしなければおかしいだろう。

 個人的に、『青天を衝け』と並行して『龍馬伝』を見返しているのだが、あまりに出来に差があると感じる。坂本龍馬も、本家は裕福な商家だったこともあり、『龍馬伝』劇中では「実は貧乏が理由で苦労した経験がそんなにない」というようなセリフを口にする。

 そんな彼でさえ「世の中を洗濯したい」と考えるようになる背景を、「龍馬もの」のフィクションはこれでもかと強調する。龍馬の地元における壮絶な身分格差(泥の中で上士に土下座させられる・病弱な母親を雨ざらしにされて事実上殺される等)や、階級間の世界観の分断(農民達に堤防の修理を呼びかけても「上士と違って政治にも参加していない、ただ飯を食っているだけの下士」の言うことなど全然聞いてくれない・能力さえあれば階級に関係なく人を重用するらしい人物に会ってみたら「単に能力次第で差別する人物」だった等)。『龍馬伝』では、巨大な黒船が間近に轟音を立てて横切っていくシーンによって、「外国の脅威」が強調された。龍馬が当然抱くであろう外敵への危機感を視聴者にも共感しやすくするための重要なシーンである。(龍馬の家庭環境を思わせる『龍馬伝』の前述の台詞は、物語の比較的終盤になって「そういえば」と思ってしまうようなタイミングで語られている。序盤から中盤においては、"洗濯前"の日本における悲惨な出来事が次々と描かれ続ける。)

 「龍馬もの」において語られ続けてきたこういったエピソードは、明治期の自由民権運動の頃に、運動のビジョンを彼の人生に重ね合わせながら執筆された小説『汗血千里の駒』以来、時にフィクションを織り交ぜたり(と思いきや「フィクションなので」と排除されたり)、その時代の社会の気分とうまく絡まり合いながら、連綿と繰り返されてきたドラマ化の試みの上に積み重ねられてきたものである。

 そう考えると、渋沢栄一という題材には、表面的な要素を摘まんで考えてみる限り、いま扱うには響きにくいものが含まれている。今の時代、「儒教」「道徳」は、不人気な悪者のほうが持ち出しがちな言葉である。オリンピック大好きなのに反オリンピズム的な発言で話題になったあの"森元さん"も、時折「天」に言及することがあるが、つまりそういうことなのだろう。(そういえば、「西欧由来の政治的正しさ」や「変革を唱える人物」も人気が無いので、仮に坂本龍馬をいま大河ドラマにするにしても、多少のアレンジが必要になるんだろうなぁ。)

 いま人気があるのは、疾病禍にあることもあり、儒教というより科学、道徳というより公益だろう。科学によれば、人の境遇を左右しているのは、儒教の説く天というより、環境や社会階層と呼んだほうがより正確なものであることがすでに明らかになっている。ただ、道徳や公益は別に相反するものでもないので、もっと言いかえやはぐらかしを駆使しながら、うまいことフィクションに落とし込めそうに思える。2021年に渋沢栄一をやるなら、儒教や道徳を工夫無くそのまま描くのではなく、「合理的な考え方」や「公益を重視する姿勢」というふうに、うまいこと言いかえながら描いたほうが、より響くだろうなぁと思う。

 

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Webライター・ヨッピーさんの「フリー素材はゴミ」発言について

tver.jp

さらば青春の光・森田:

フリー素材でしか作ってないゲームを考えたんっすよ。誰にも頼ってない、もうあの、ネットにしか頼ってない。

 

ヨッピー:

なんか"ゴミを集めて工作をするおじさん"が作ったみたいな。

 

 会心の1ゲー 2月4日(木)放送分

 

フリー素材を公開している人の動機は様々だ。自分の創作物の宣伝になるから、というような一定の経済的合理性に基づく場合もあれば、より利他の精神に根付いているケースもある。

僕が趣味でゲーム作りをしていた頃。Webから収集した素材は各権利者ごとにフォルダに分類し、入手した時点の利用規約(当然、権利表示の規定等、重要な情報がここに含まれている。)、入手したWebサイトのURL、権利者の名前を記録したテキストファイルを必ず各フォルダに配置し、「素材そのもの」と「その素材のふさわしい取り扱われ方」とが必ずセットで保存されるように細心の注意を払っていた。ゲームの著作権表示の部分の製作に取り掛かる際には、それぞれの著作権者の利用規約にもう一度目を通し、全ての素材が適正に扱われているか、念入りにチェックするようにしていた。万が一、著作権の所在が曖昧となった素材が見つかった場合*1、その素材は一切使用されないよう厳重に隔離するものとし、素材の著作者に敬意を欠いた状態が公に発生しないよう、細心の注意を払った。

フリー素材の使用にあたってこれだけ管理の手間をかけたのは、基本的に、自分は素材を"使わせていただいている"立場だという認識があったからだ。

もっとも、フリー素材を使用して完成した作品が内包する表現にも(多少皮肉めいたニュアンスを感じさせるものを含め)、様々なありようがあってしかるべきである。例えば、あるフリー素材が一定のチープさを意図的に醸し出していた場合、それを活用して新しくシニカルな表現を生み出す、というケースはありうる。

それでも、素材そのものを「ゴミ」と表現するのは、その素材自体の存在意義にもある程度踏み込もうとする言葉選びである。これはあまりに敬意を欠く。(通常、誰かが誰かに、あるいは誰かが何らかの創作物に「ゴミ」という論評をする場合、その誰かないし創作物については、「捨ててもよいもの」あるいは「存在する価値のないもの」とみなされてしかるべき、という意味である。)

*1:ゲーム制作をはじめたばかりの不慣れな頃は、"Webサイトの名前と著作権者の氏名とが混同されている危険性があり、かつ該当のWebサイトが閉鎖されていて確認ができない"というような事態が時折発生した。

【ブログ新カテゴリー設置のお知らせ】あとポテトが美味しいので元気です。

コロにちわ~。

えっ僕ブログなんてやってたんですね…。

嘘ですすいません。忘れたふりをしていました。

今日も元気だポテトがしょっぱい!

 

ところで、食事を全部載せるブログのほうに、新しいカテゴリーを追加していました(過去形)。

wzm.hatenablog.com

しばらく記事が増えることはないと思うけどね~。

GoToEat、またやってくれないかなー。美味しいお店ばかりだったので、事態が落ち着いたらまた巡ってみたいです。

wzm.hatenablog.comこのレストランは割となんでもうまいけど、中華料理が突出してうまい。なんでだろう。

wzm.hatenablog.comやっぱりタタキは美味しいですね。あーまたはらんぼ食べたくなってきた。あの香ばしいのに塩かけて食べるのがいいんだよ…。

リンク先に画像載せてあるけど、中川翔子さんの色紙に描いてあるアリーナ(ドラクエ4)とスライムのイラストがかわいかった。

目に見えない相手の目に映っている世界を想像する。「けものフレンズ3」対人戦のおもしろさについて

 こんなにアプリのゲームを真面目に遊んでるの、久しぶりな気がする。
けものフレンズ3のゲーム要素の中で、一番おもしろくて奥が深いの、「ちからくらべ(対人戦)」の防衛だと思う。

 プレイされた方ならご存じの通り、防衛戦で勝利するために出来ることと言ったら、予め専用のパーティーを組んでおいて、「あとよろしく~」とバイバイすることぐらい。防衛側は戦闘中の自分のパーティーの行動をほぼ指定できない。攻撃側は好きなように行動できるうえ、倒せそうにない対戦相手を選んでくれる動機は無い(防衛側が対戦相手を選ぶ手段はほぼ無い)ので、圧倒的に防衛側が不利。

 その日の防衛戦がどうなったのかは、一日に一度発表される「勝利回数」からしか分からない。その日に何度戦ったかは発表されないので、「勝率」は分からない。戦闘中に相手がどういう行動を取ったかも発表されない。どんな構成のパーティーが相手だったのかも教えてくれない。だから、相手が取った戦術は全く分からない。

 自分が考えた戦略がうまくいったかどうかも、検討のしようがない。僅かな勝利回数の増減が、偶然なのか、自分が考え出した戦術がハマったからなのか、単に接続人数を反映しているだけなのか、全部が分からない。かと言えば、パーティー構成を大幅に変えると、明らかに数字が動いていたりする。いや、わからん。どうなるか、ぜんぜんわからん。

 戦闘中に何が起こったかの全ては、推測するしかない。

 こんな不利な状況の中で、見えない相手を翻弄する戦術をどうひねり出すか、という戦いになる。今のインターネットにおいても一番重要と思われる「目に見えない相手の目に映っている世界を想像する力」がめちゃくちゃ試される。本当におもしろい。

 しかもこれ、うまくいかなくても失うものはほとんどないし、得るものもほぼ無し。本気でやりたい人だけ本気出せばよくて、面倒なら放置しておけばいい。
いいですね。本当にいい。プレイヤーを縛ろうとしてこないのはありがたいですね。

 

https://www.instagram.com/p/B3Dw_tHAjxE/

 無関係な秋の画像です。

spotifyのプレミアム会員になりました。

 これでアガる音楽を聴くことしかできません、隊長。

 この会員権は五千兆円くらいに値上がりするまで保有しておこうと思います。この投資が当たったら、ローソンで馬鹿みたいな買い物を繰り返し、老後はpontaポイントだけで暮らしたい。